動物病院から届いた最後の連絡を、何度も読み返してしまう夜があります。あのときすぐに気づいていたら、別の病院に行っていたら、あの日もう少し長くそばにいたら。大切な存在を見送ったあと、もう結末の変わらない出来事に、次々と「もし」を付け足してしまうことがあります。同じ記録を読み返しても結果は変わらないのに、画面を閉じることが、まだ確かめるべき何かを諦めることのように思えるのかもしれません。一日の終わりが自分を問い詰める時間になっているなら、今夜は結論を出すよりも、その問いを少しゆっくり見つめてみませんか。
あのとき知っていたことと、今知っていること
今の自分は、最後に何が起きたかを知っています。しかし、決断した日の自分は検査結果を待ち、限られた説明を聞き、いくつもの可能性の間に立っていました。当時は気づかなかった兆候が、今ははっきりとつながって見えるかもしれません。だからといって、あの日の自分にも同じように見えていたわけではありません。当時知っていた事実、あとから知った事実、まだ確かめられていない推測を分けて書くことは、その違いを見つめる一つの方法です。気持ちがいっぱいになったら、一行でやめてもかまいません。
英国の動物医療慈善団体PDSAは、安楽死のあとに罪悪感を抱くこと自体は、決断が間違っていたことを意味しないと説明しています。これは、医療上の選択がすべて必ず正しかったと判断する言葉ではありません。確かめたいことがあるなら、その問いは残しておいてよいのです。ただ、罪悪感が強いという理由だけで、答えを先に決めなくてもよいのではないでしょうか。心の痛みと、実際に何が起きたのかを、いったん分けて考えることから始められます。
別の選択をしていれば必ずもっと長く生きられた、という考えにも、まだわからない部分が含まれています。実際には選ばなかった道の先で何が起きたかは、確かめることができないからです。その不確かさを受け入れたくない日もあるでしょう。はっきりした間違いを一つ見つければ話が終わるように思えて、答えがないことのほうが苦しく感じられるかもしれません。そんなときは、今日中にあらゆる可能性を検討し尽くすという課題を、いったん置いてもよいのです。「まだわからない」は責任を避ける言葉ではなく、わかることの限界を正直に表す言葉にもなります。
最後の一日だけで、共に過ごした日々を語らない
後悔が指し示す場面は、短く、具体的なことが多いものです。帰りが遅くなった夜、いら立ちの混じった声、病院へ連れていった時刻。しかし、共に暮らした時間は、それらの場面よりずっと広がっています。新しい水に替えた日、いつもの居場所を空けておいた日、歩き方が普段と違わないか気にかけた日。そうした何でもない日も、その関係の一部です。最後にうまくできなかったと思うことを、無理に消す必要はありません。ただ、その一場面だけに、ほかのすべての日を説明させなくてもよいはずです。一緒に過ごした日々の記録には、後悔以外の事実を置く場所も必要です。
書く余裕があれば、後悔していることの隣に、実際にしてあげたことを一つ並べてみてください。大きな犠牲や感動的な出来事を探す必要はありません。冬の散歩のあとに足を拭いたこと、眠っている猫を起こさないようにそっと姿勢を変えたこと。小さくても、確かにあった場面で十分です。これは、つらい記憶を楽しい記憶で覆い隠すための宿題ではありません。一方に偏った記録に、ほかの事実を加えていく作業です。今日は何も浮かばなければ空欄のままにして、誰かと話すうちに思い出したとき、書き足してもよいでしょう。
長い看病のなかで疲れ切っていた自分を思い出すこともあるかもしれません。休みたいと思ったことや、張り詰めていた気持ちがほどけて一瞬ほっとしたことまで、責めてしまうこともあるでしょう。それでも、疲れていた自分を消さなければ、愛していた自分を語れないわけではありません。愛している間も、人には睡眠や休息が必要でした。当時のことを書くなら、愛犬や愛猫の状態だけでなく、自分はどのくらい眠り、誰に助けてもらい、どんな状況で決断したのかも一緒に残してみてください。裁かれる対象としてだけでなく、その状況を生きていた一人の人として、自分を見直すための記録です。
確かめたい疑問と、聞いてほしい思いを分ける
診療の経過に疑問が残っているなら、記憶のなかを繰り返し探す代わりに、確認したいことを短く書いておく方法もあります。当時の治療は何を目指していたのか、説明された選択肢にはどのような違いがあったのか、今でもわからないことは何か。問いを具体的にしておき、望むときに担当の獣医師へ記録に基づく説明をお願いできます。まだ連絡する力がなければ、メモを保管するだけでもかまいません。答えを聞くことと、その答えを気持ちの上で受け止めることを、同じ日に終える必要はありません。
一方で、情報よりも誰かにそばにいてほしい問いもあります。最後は寂しかっただろうか、どれほど大切だったか伝わっていただろうか。相手にも確かな答えは出せないかもしれません。それでも、その問いを一人で繰り返さなくて済むよう、隣にいることはできます。身近な人に、今日は自分に落ち度がなかったと説得するより、あの日の話を少し聞いてほしいと頼んでみてください。途中で話せなくなっても、前にした話をまたしてもよいか、先に尋ねてもかまいません。どんな助けがほしいのかを具体的に伝えると、力になりたい相手にも、寄り添うための手がかりができます。
話す相手は、関係の近さよりも実際の反応を見て選んでかまいません。家族だから必ず話しやすいとは限らず、似た別れを経験した人だから同じ気持ちだとも限りません。話を急いで終わらせようとせず、医療上の事実を知らないまま断定せず、休みたいという言葉を受け止めてくれる人。そのような人が、今の話し相手になるかもしれません。話したあとにいっそう疲れるなら、別の場を探してもよいのです。ペットロスに対応するカウンセリングや、同じような経験をした人の集まりも選択肢です。支えを受けるために、初めからすべてを打ち明けなければならないわけではありません。
今日、自分を許せなくても
「自分を許して」と言われることさえ、遠すぎる課題に感じる日があります。そんな日は、許すことを今日の目標にしなくてかまいません。代わりに、自分に下している判決の言葉を少し変えてみることはできます。「自分がすべてを台無しにした」を、「あの日の一つの決断を、今も後悔している」に変えてみるのです。後の言葉にも痛みは残りますが、何をつらく感じているのかが少し具体的になります。後悔を消したり美化したりせず、それでも自分のすべてを一つの結論でくくらない言葉を探してみることです。
毎日この記事を読んだり、記録を完成させたりする必要もありません。今日は問いを閉じて夕食を食べ、明日は写真を一枚眺める、という選び方もあります。今は「ごめんね」しか言えなくても、いつかその隣に、ありがとうと思う出来事や、思わず笑った癖を書き添えられるかもしれません。その「いつか」を今日に早める義務はありません。共に過ごした日々を、最後の場面よりも広く思い出せる場所を、少しずつ残しておくこと。今できることがそれだけなら、そこから始めてもよいのです。

