カレンダーをめくると、ある日付で目が止まります。去年はちょっとしたおやつを用意して、写真を撮った誕生日。スマートフォンは今年もその日が近いと知らせてくれますが、今度は誰のために何を用意すればいいのか分かりません。いつもどおりに過ごすと、一緒にいた時間を消してしまうような気がする。かといって一日を空けておくのも、その長い時間をどう過ごせばいいか不安です。愛犬や愛猫の命日、誕生日を前にした気持ちは、「会いたい」という言葉だけでは言い尽くせないことがあります。
周りの人は、日付が分かっていれば準備もしやすいと思うかもしれません。でも、悲しみはカレンダーどおりには訪れません。予定を考える段階から胸が重くなることもあれば、当日は思いのほか穏やかに過ごすこともあります。どう過ごすのが正しいのだろうと迷っているなら、その一日で関係のすべてが評価されるわけではない、ということを心の片隅に置いてみてください。その日をうまく過ごせたかどうかで、愛情の深さが決まるわけではありません。
日付より先にやってくる季節
記憶を連れてくるのは、日付の数字だけではありません。初めて一緒に歩いた道に同じ花が咲いたとき。通院していた頃の上着を出したとき。今とあの頃が、ふと重なります。印をつけていないのになぜか心に引っかかる日があったら、どんな場面につながっているのか、そっと振り返ってもいいでしょう。名前のついていない日でも、自分にとっては十分に大切な日なのかもしれません。ほかの人がその日を覚えていなくても、そのつながりはなくなりません。
人との死別を扱うCruse Scotlandの案内では、命日や誕生日に悲しみが再び強くなることがあると説明しています。愛犬や愛猫を思う私たちのカレンダーにも、特別な重みを持つ日があるのでしょう。先月より今週のほうがつらくても、それまで過ごしてきた時間が無意味になったわけではありません。同じ季節が巡り、いつも隣にいた存在がいないことに、今年の自分として改めて向き合っている。そんなふうに考えてみてもいいのかもしれません。
すべての日付を記しておく必要はありません。誕生日は覚えていたくても、最後に病院へ行った日は特別に過ごしたくないこともあるでしょう。過去の写真を知らせる通知がつらければ、しばらく止めておいてもかまいません。自分で見たいときに写真を開くことを選ぶのです。思い出に触れる時期や方法を調整しても、あの子を心から遠ざけることにはなりません。カレンダーを印で埋め尽くさなくても、一緒に生きた時間は大切にできます。
小さな予定と、変えてもいい余地
何か用意したいと思ったら、できるだけ小さなことから考えてみてください。朝に一度名前を呼ぶ。好きだった場所の写真を出す。いつもの散歩道を少しだけ歩く。そのくらいでも十分です。特別なものを買ったり、きれいに仕上げた追悼の品を作ったりしなくてもかまいません。何を残すかより先に、その行動をする自分にどのくらいの余裕が必要か、問いかけてみてもいいでしょう。まだ何も決めたくなければ、予定は空欄のままで大丈夫です。
予定の隣には、変更できる選択肢も置いてみませんか。出かけるのが難しければ、家で窓を開けて過ごす。写真が見られなければ、封筒に名前だけ書く。人と会う約束をしていても、疲れていたら短い電話に変える。その日の自分の様子を確かめることを、以前の約束より優先してもいいのです。取りやめたり、規模を小さくしたりしても、追悼が失敗したことにはなりません。花を飾るのが翌日になっても、手紙を書き終えずにたたんでも、そこにある思いは消えません。
一日すべてを空けられない事情もあります。会議に出て、子どもを迎えに行き、ほかの家族の食事を用意しなければならない日もあるでしょう。そんなときは仕事のあとに少しだけ、あるいは週末の余裕がある時間に移してもかまいません。日付が変わるまでに必ず何かをしなければ、という決まりを自分に課す必要はありません。思い出す行動がその日付と重ならなくても、思いを向ける相手は同じです。日々の暮らしを続ける人にも、悼むための時間は必要です。
誰と過ごすか、どこまで分かち合うか
一人でいたいのか、誰かにそばにいてほしいのか分からなければ、その迷いごと伝えてもいいでしょう。親しい人に「その日、どんな気持ちになるかまだ分からないんだ。夜に少し連絡をもらえる?」と頼むこともできます。慰めの言葉を探すより、一緒にお茶を飲んでほしい。写真は、こちらからお願いするまで送らないでほしい。そんな希望も伝えてかまいません。気持ちをぴたりと察してもらうのを待つ代わりに、今してもらえそうなことを一つ知らせるのです。
家族でも、同じ過ごし方を望むとは限りません。一人は写真を見返したくて、もう一人はいつもどおりに夕食を食べたいかもしれません。短い時間だけ一緒に過ごし、そのあとはそれぞれの時間にすることも、今年は別々に過ごすと話し合うこともできます。参加しないから関心がない、とすぐに決めつけないでいたいものです。家族の追悼が誰かの我慢を試す場にならないように、何がつらくて、何ならできそうかを先に話してみてください。
インターネットに投稿するかどうかも、自分で選べます。公開した記録がなければ記念日にならない、ということはありません。文章を書いて自分だけで持っていても、写真を投稿したあとで通知を切ってもいいのです。ほかの家族の顔や私的な出来事を載せるなら、先に気持ちを確かめておくとよいでしょう。コメントに返事をする力がないときは、返さなくてもかまいません。思い出を分かち合う場でも、誰にどこまで見せるか、いつ会話を終えるかは自分で決められます。
翌日の自分にも、少し余白を
命日に向けて気を張っていて、翌朝のほうがぽっかりと寂しくなることもあるかもしれません。だからこそ、その日のあとにも少し余白を用意してみませんか。できれば翌日の予定を一つ減らす。すぐに食べられるものを用意する。連絡してもよさそうな人を思い浮かべておく。悲しみを予想どおりに動かすためではなく、予想と違う一日になっても、自分一人ですべてを引き受けなくてすむようにする準備です。
反対に、思っていたより穏やかに過ごせたなら、その穏やかさを疑わなくてもいいのです。泣かなかったからと、写真を長く見つめて悲しみを確かめる必要はありません。うっかり日付を忘れて、あとから思い出したとしても、愛してきた日々はその一度のことでなくなりません。日付を覚えていることと、一緒に暮らして築いた関係は別のものです。記念日には必ずこう感じるべきだという期待を、少し下ろせたらと思います。
来年は、今年と違う過ごし方でも大丈夫です。今年は一人だったけれど、次は誰かと思い出を話したくなるかもしれません。長く続けてきた習慣を、少し休みたくなることもあるでしょう。思い出は、毎年同じ形を守らなければ残らないものではありません。カレンダーの一日から求められているように感じることを全部こなそうとせず、その日の自分にできる分だけ場所を空けてみてください。一枚の写真を取り出す夜にも、何も語らず過ごす朝にも、一緒にいた時間をそっと置くことはできます。

