「ペットロス症候群」と検索するまでに、何度も言葉を飲み込んできた人がいるかもしれません。仕事はしているし、人と笑うこともある。それでも帰宅して鍵を回すとき、向こう側に待っている気配がないことに、毎日あらためて気づく。「まだそんなに寂しいの」と言われそうで、誰にも話さなくなる。検索窓に尋ねたいのは、病気かどうかよりも、この悲しさを大げさだと思わずに聞いてくれる人がいるのか、ということなのかもしれません。
大切な存在を亡くした悲しみが、周囲から十分に認められないことがあります。「公認されない悲嘆」とも呼ばれますが、本人の悲しみが間違っているという意味ではありません。関係の深さに対して、それを受け止める社会の余地が小さいということです。「動物のことだから」というひと言で、話が終わってしまう。毎日の世話も、一緒に年を重ねた時間も、その短い言葉には入りません。説明するほど弁解のように聞こえる気がして、黙ってしまうこともあります。
四十九日には花を替え、一周忌には好きだったものを供える。そうした節目が、会えなくなった日々にひとつの形を与えることがあります。ただ、法要の日付と心の動きは、同じ暦どおりには進みません。四十九日を過ぎたから写真を片づける、一年たったから泣かなくなる、という決まりはありません。家の小さな祭壇に朝晩声をかけ、「今日は寒いね」と話すことも、暮らしの中で続いている自然なつながりのひとつです。
一方で、誰かに支えてほしいと思っても、専門家に話すとなるとためらうことがあります。「ペットのことで相談するなんて」「そこまで弱っていると思われたくない」。そんな気持ちには、相談することへの世間の目も重なっています。話しにくさを、本人の性格だけで説明することはできません。また、検索語に「症候群」と付いているからといって、悲しんでいる人すべてに診断が必要だという意味にもなりません。気持ちを言葉にすることと、病名を求めることは、同じではないのです。
家族の中でも、同じ日に同じように寂しくなるとは限りません。名前をよく口にする人も、話題を避ける人もいる。その違いだけでは、それぞれの思いはわかりません。何でもない夕方、いつもの場所を空けて座ったあとで、不在に気づく。そんな小さな出来事を、「まだ?」と区切られずに話せる場は多くありません。そこにあったのは、毎日をともにした、ほかの誰とも取り替えられない関係でした。寂しさを語る言葉の後ろには、今もその具体的な暮らしがあります。

